このページは 2006年 12月 11日 22時54分16秒 に更新されました。

というとは?

宮台真司と仲正昌樹の対談集「日常・共同体・アイロニー」を読んでたのだが、思った。
クィアをめぐる議論を眺めて気にかかるのは、要するに、当該対談で仲正が言うような、一種の疎外論図式である。
「健全な」市民社会から排除され抑圧された存在にこそ、正統の外部にこそ、強度の楽園があり、そしてそんな異端のカオスとパッション(=情熱or受難)こそが、私達「正常な」市民社会を=正統を、オルタナティブとして外部から照射し撃つ。そのとき正負は相対化され、あるいは負の側にこそ正が宿りうる……
そう、ポスコロにしてカルスタの論理である。当該対談でもクソミソに言われている。
カルスタ批判におけるクリシェ=入り口にして出口である。人類学の実践的な最大課題である。
インド行って打ちのめされ「目覚め」て、帰国後クーラーの効いた部屋でモバイル使って「ガンジス河の生と死」「その少女の澄んだ瞳」について「エクスァイア」に発表する作家先生みたいなモンである。上記の「インド」には「イラク」を代入しても可。「ガンジス河」には「戦場と化した街」を代入。
「ブッシュに侵略される戦場の子供達の写真集」というのを「時機に合わせてメッセージとして」製作し、NHKにまで出演された池澤夏樹先生というのがいらっしゃいました。アンゲロプロスの翻訳家です。「ドナドナ」の仔牛のような眼の子供達。オリエンタリズムここに極まれりと思ったけれども。

[引用サイト] 地を這う難破船 - 人工という本来


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